人類のためだ

この練習は永遠に続くんじゃないか。
砂埃の舞うグラウンドで、
そんなことを考えた
あの夏の日の経験を、
いまの自分は生かせているのかな。

藤島大ラグビーエッセイ選集「人類のためだ」を読む。
アルバムをほとんど全部持っているのに、
ついつい買ったしまったベスト盤の感はあるが・・・(笑)

なぜラグビーの本を夏に出すのか。
本書の構成で、最初にくるのは、
元日本代表監督、故大西鐵之祐氏の
早稲田大学での最終講義を題材にした
「体を張った平和論」。
著者は、ジャーナリストとして
「いま」伝えなければいけないことを
淡々と的確に伝えている。

実際に戦地に行ったかどうかということより、
未来をどれだけ真剣に憂いているかが
言葉に重みも持たすのだろう。
1987年に学生に向けられた大学教授の言葉は、
いまのこの国のリーダーが発するメッセージより
ずっと重く感じる。

・・・

「わたしは(略)8年間戦争にいってきました。人も殺しましたし、捕虜をぶん殴りもしました。(略)そのときに、こうなったら、つまり、いったん戦争になってしまったら人間はもうだめだということを感じました。そこに遭遇した二人の人間や敵対する者のあいだには、ひとつも個人的な恨みはないんです。向こうが撃ってきよるし、死んじまうのは嫌だから撃っていくというだけのことで、それが戦争の姿なんです」

「権力者が戦争のほうに進んでいく場合には、われわれは断固として、命をかけてもそのソシアル・フォーセスを使って(選挙で)落としていかないと、あるところまでウワーッと引っ張られてしもうたら、もう何にもできませんよ、わたしたちがそうだったんだから」

「私たちは、平和な社会をいったんつくり上げたのですから、戦争のほうに進ませちゃったら、戦死したり、罪もなく殺されていった人々、子供たちに、どうおわびするのですか」

・・・

このエッセイの最後を筆者はこう締める。
昭和のラガーマンは、腑に落ちるのだけど、
いまの若者の心に届くのかな。

・・・

走って、倒して、粘って、
それを繰り返す大接戦、
どうしても勝ちたい相手に対して、
たとえルールの範疇にあっても、
本当に汚い行為はしない。
ジャスティス(順法)より上位の
フェアネス(きれい)を生きる。
すると社会に出ても、
ズルを感知する能力が研ぎ澄まされる。
「変な方向」がわかる。

明日の炎天の練習が憂鬱な若者よ、
君たちは、なぜラグビーをするのか。
それは「戦争をしないため」だ。

・・・

この果敢ない季節に、楕円球を通して
いままで持ち得なかった強さと
仲間の信頼を得た若者が
「どんなに勝ちたくともここを踏み越えてはならない、という倫理」を
身につけてくれることを切に願う。